学生服
菅公学生服 撮影:2007年5月
菅公シャツ 学生服 撮影:2013年3月
岡山県岡山市北区駅元町15番1号 岡山リットシティビル5階(旧本社:岡山県倉敷市児島田の口三丁目10-25)、菅公学生服(株)
菅公学生服(横長、ふりがな付き)撮影:2012年5月
(下)中に電球の入る合成樹脂製電飾看板。蛍光灯ではなく白熱球が入っていました。琺瑯ではありませんが、梅の中の道真公の顔と「学」の字がめずらしいです。拡大画像(81KB)
菅公学生服(株)は尾崎邦蔵氏により、安政元年(1854年)綿糸業創業。大正12年(1923年)より学生服の製造開始。昭和4年(1929年)、株式会社設立。平成17年(2005年)、本社移転。平成25年(2013年)8月、尾崎商事(株)から菅公学生服(株)に社名変更。
ブランドの由来は、創業者の尾崎邦蔵氏が琴浦天満宮(菅原道真公)を信仰していたため、「菅公」の商標を神田の帽子店から買い取ったのが始まりとのこと。
富士ヨット学生服 ヨットシャツ 撮影:2001年12月
富士ヨット学生服 撮影:2007年9月
岡山県倉敷市児島田の口一丁目3-44、明石被服興業(株)
明石被服興業は、慶応元年(1865年)、明石役造氏が真田紐などの製造を開始。昭和7年(1932年)、学生服の製造開始。昭和19年(1944年)11月、明石被服興業(株)設立。
昭和25年(1950年)、「冨士ヨット」、「アサヒヨット」ブランド製造開始。昭和31年(1956年)よりナイロン製カッターシャツ製造。
富士ヨット学生服
撮影:2019年5月
1枚目の方が古いでしょうか。
東レのナイロン.テトロン 鳩サクラ学生服 撮影:2001年10月
鳩サクラ学生服 シヤツ・トレーニングパンツ 撮影:2002年4月
岡山県倉敷市児島田の口七丁目1-11、オゴー産業(株)
明治25年(1892年)、織物販売の小郷商店として創業。当初は石炭業も営んでいました。縫製業の開始は昭和2年(1927年)のこと。昭和37年(1962年)7月、小郷産業(株)設立。平成18年(2006年)7月、民事再生法の適用を申請。平成18年(2006年)9月、富士ヨットの明石被服興業が出資し、オゴー産業が設立されました。
テトロンの誕生は昭和32年(1957年)。一般公募により命名されました。帝人の「テ」と東レの「ト」の組合わせなのだとか。
太陽櫻学生服 撮影:2004年4月
太陽櫻学生服 撮影:2002年9月
岡山県倉敷市児島下の町五丁目5-3、日本被服(株)
日本被服は、文久3年(1863年)、佐藤喜代三氏が染色業を創業。明治30年(1897年)ごろ足袋製造に転業。大正11年(1922年)ごろ学生服製造開始。現在営業しているメーカーの中では、最も古くから学生服の縫製を手がけています。昭和5年(1930年)、日本被服(株)設立、「太陽櫻」ブランド製造を開始。
平成22年(2010年)11月、敷地内に児島学生服資料館がオープン。忠臣君の出迎える入口を入ると琺瑯看板などの販促グッズも展示されています。学生服を着て記念撮影できるコーナーもあるようです。
サクラ日本 学生服 シヤツ 撮影:2001年11月
岡山県倉敷市田の口七丁目2-16にあった石井産業(株)の看板。
大正5年(1916年)創業。創業時は織物業を営んでいましたが、昭和3年(1928年)、学生服製造開始。昭和22年(1947年)7月株式会社設立。平成18年(2006年)6月、自己破産。
鉄道沿線などでよく見かける看板です。他の学生服の看板も全国的に多いようです。琺瑯看板が多く作られた時期は団塊の世代が学生服を着ていた時期で、宣伝も随分行われたのでしょう。
ニッショウ学生服 撮影:2002年3月
もとは、岡山市北区磨屋町10-19にあった日本商工(株)のブランド。日本商工は昭和10年(1935年)4月設立。昭和59年(1984年)ごろなくなっているようです。昭和61年(1986年)7月より岡山市東区西大寺中三丁目16-38の昭和被服総業(株)がブランドを継承しています。
大臣印学生服 撮影:2002年9月
岡山県倉敷市児島下の町八丁目8-25、(株)背板本店
大正13年(1924年)、背板冨士太郎氏が学生服製造開始。大正15年、背板兄弟商会設立。このころ「大臣印」登録。昭和初期は田の口地区のトップメーカーだったそうです。
昭和25年(1950年)、3社に分割。本家は背板被服として「大洋鳩」ブランド製造。分家の背板本店が「大臣印」を継承。
web検索や書籍では「脊板」の表記もあったのですが、タウンページでは「背板」になっています。
忠臣服 撮影:2006年10月
忠臣学生服 撮影:2002年3月
拡大画像(37KB)
倉敷市児島小川1388(昭和30年代の住所)にあった(株)西原本店のブランドだったようです。
西原本店は、明治2年(1869年)、足袋縫製業創業。昭和3年(1928年)、「忠臣印」で学生服製造に乗り出しますが、昭和44年(1969年)1月倒産。
下は可愛らしい看板ですね。この顔で飛び出しぼうやを作ってもいいかもしれません。
上の酒看板共々消滅。
まるまん学生服 撮影:2002年3月
大正8年(1919年)、岡野多郎松氏が織物業創業。昭和12年(1937年)、学生服の製造を始め、昭和25年(1950年)、岡野興業(有)に改組、○万印製品(学生服、作業服、布類)製造。翌年株式会社に。
昭和28年(1953年)学生服部門を分離、丸万被服(株)を設立(本社:児島小川町1-5-43)。
丸万被服は昭和60年(1985年)ごろまではあったのではないかと思われます。母体の岡野興業(倉敷市上富井509-3)はその後も織物業を続け、平成9年(1997年)ごろよりゴルフ練習場等の入ったスポーツ施設、リンクスランドを経営しています。
ダイヤ学生服 撮影:2005年10月
3分割連結管版。建物のコーナー部分でも楽に張れる仕様。
岡山市北区富町二丁目3-8にあった丸三(株)のブランドだったようです。丸三は昭和11年(1936年)創業。昭和25年(1950年)会社設立。平成12年(2000年)ごろなくなっているようです。
ダイヤ服 撮影:2001年10月
平成14年(2002年)10月の時点では、社屋はまだ富町二丁目4番にあり、屋上には「世界の子供服 トムソーヤ」と「ダイヤ学生服」の看板がありました(2枚目の左の方は丸三のマーク)。
横の道路を本当に何度も通っていたのに、学生服工場だったとは気がつきませんでした。
まるいし学生服
撮影:2002年11月 新潟県見附市(画像提供広坂兼六さん)
拡大画像(41KB、撮影:2006年9月)
少なくとも昭和30年(1955年)ごろまでは児島下の町一丁目11-27の石井織物(株)のブランド、平成14年(2002年)の時点では倉敷市児島下の町四丁目7-74、丸石(有)のブランドでした。同社は現在ではなくなっているようです。
石井織物は平成2年(1990年)ごろまで織布業を営み、その後不動産業に転業。丸石(有)についてはよく分りませんが、昭和33年(1958年)設立の丸石(株)(児島田の口1-7)が前身ではないかと思われます。丸石(株)は昭和60年(1985年)ごろまではあったようです。跡地は現在明石被服興業の物流センターになっています。
看板の広告主についてははっきりしません。
サンスワロー 旭ツバメ 学生服 撮影:2001年11月
昭和25年(1950年)1月創業、倉敷市児島稗田町1680にあった旭被服興業(株)のブランド。平成18年(2006年)ごろは岡山市北区駅元町15-1(菅公学生服と同じ)、エクセル(株)のブランド。
旭被服興業は、昭和51年(1976)ごろより旧尾崎商事の子会社か関連会社になっていて、昭和58年(1983年)ごろまであったようです。工場の跡地はスポーツクラブ等になっています。
日の出桜学生服 撮影:2005年4月/ 日の出桜学生服シャツ 撮影:2002年4月
岡山県倉敷市児島小川二丁目4番60号、児島(株)
昭和14年(1939年)、山本熊一商店として個人創業。昭和16年(1941年)児島被服(有)。昭和30年(1955年)12月、児島被服(株)、昭和45年(1970年)より児島(株)。
昭和26年(1951年)、ブランドを「日の出印」から「日の出桜」に変更。
昭和29年、倉敷ビニロン系列に加盟。その後素材に帝人テトロンを使用、系列に参加。昭和60年(1985年)、学生服のブランドを「日の出桜」から「トップメイト」に変更しています。
シャツに関しては、昭和35年(1960年)頃より委託販売をしていましたが、昭和38年(1963年)より製造販売(現在は子会社が製造)。右の看板は昭和30年代後半以降のものでしょう。
番外・合成樹脂看板
スクールタイガー学生服 撮影:2002年10月
大阪府東大阪市西石切町7丁目4番3号、瀧本(株)
大正14年(1925年)7月創業。昭和23年(1948年)1月株式会社設立。スクールタイガーは昭和5年(1930年)より存在する伝統のブランド。
琺瑯看板は見つかりませんでしたが、岡山以外の大手学生服メーカーということで掲載しました。大阪も繊維業が盛んだったので、中小メーカなら他にもあったと思われます。兵庫県では、ニッケ(日本毛織(株))がウールの学生服を製造しています。こちらは生地も自前なので、昔ながらのシステムですね。