薬1 仁丹
仁丹
撮影:2002年3月 軍人のみ拡大画像(36KB)
大阪府大阪市中央区玉造一丁目2番40号、森下仁丹(株)
明治26年(1893年)、森下南陽堂として創業。昭和11年(1936年)森下仁丹(株)に。
旅行に 仁丹
撮影:2009年3月
森下仁丹は、創業当初から熱心に宣伝活動をされていたようで、「昭和の常識」といったコピーもありました。軍人の顔や服装も時代によってマイナーチェンジされています。
『広告キャラクター大博物館』P35には、仁丹マークの変遷が書かれています。文字は、大正時代までは習字のようなロゴで、昭和2年(1927年)より少しデザインされ、はねの部分がぴらんとなりました。
昭和25年(1950年)からはこの看板のようなロゴタイプで、「丹」の字の3画目が上についていなくて、はねの部分がお玉のようになっています。
この紳士は実は軍人ではなく、健康を世界に運ぶ外交官だという話が「仁丹のど飴」のパッケージにもありました。
仁丹 赤の小粒
撮影:2005年5月 拡大画像(40KB)
仁丹 赤の小粒
撮影:2005年5月
1枚の看板の裏表です。片方が左書き、もう片方が右書きになっています。
これは、「赤」の文字を通りに近い方にして吊り下げる設定にしていて、通りから店の奥に向かって文字を流す、屋台テントのような進行方向書きにしているのでしょう。
軍人さんの顔は裏は逆向きで、お店に入ってくるお客さんを出迎えるようになっています。西濃運輸のカンガルーが、常に前を向いて走っているのと同じですね。。
現代人の嗜み 仁丹 親せつな・・・・・・店 買いよい・・・・・・店
撮影:2013年5月
飾り看板のようでもありました。
上京區(区)元誓願寺通六軒町東入 玉屋町
上京區(区)西洞院通夷川下ル西入 薬師町
撮影:2005年1月 京都市
伏見市 周防町
撮影:2005年1月 京都市伏見区
「伏見市」は昭和4年(1929年)5月1日より昭和6年(1931年)3月31日まで。
仁丹 執務勉強に 膳所大津町
撮影:2006年1月 滋賀県大津市 拡大画像(33KB)
仁丹の町名標示は、明治の終わり頃から主要都市に順次取り付けられていったということで、京都には今でも多く残されています。マークが上にあるものの方が多いでしょうか。
仁丹町名標示の張り方
ひとつの建物に、
(左)下京區 東洞院通下數珠屋町下ル橘町
(右)下京區 下數珠屋町通東洞院西入橘町
という町名標示看板が取り付けられています。
これは当然どちらも正解で、京都の中心部の住所を表す場合、壁に面している通りの名前、その通りと交わる通りの名前、交わる通りからどちらに行くか、町名を順に記載するようになっているようです。この方式だと、正面玄関がどこにあるかがわかるので便利らしいです。
交わる通りからの行き方は、東西に走る通りから北に行く場合は「上がる」、南に行く場合は「下がる」、南北の通りから東に行く場合は「東入る」、西に行く場合は「西入る」となります。
ですので、この建物は、下の図の太くなっているコーナーにあることがわかります。
鞆町鞆 岡本家長屋門前 江の浦町
撮影:2019年3月 広島県福山市
2010年、森下仁丹より「京都町名看板の設置住居及び書き手募集について」というアナウンスがありました。2019年現在、平成版の琺瑯町名看板が福山市鞆の浦に設置されています。町名よりも観光スポットの案内優先になっているようですね。
軍人の顔や服装は現代的にすっきりしたデザインになっています。仁丹のロゴも今風。そしてさすがは琺瑯、ものすごくきれいですね。
八尾市南本町八丁目 映画に・・・・・仁丹
撮影:2010年3月
ロゴが新しいです。
参考文献
- 『≪上場会社版≫会社年鑑 2002年版』2001年10月22日 日本経済新聞社
- 『楽しいネーミング百科』天野祐吉・関沢英彦・多田道太郎・山口仲美編著 1995年12月10日 三省堂
- 『仁丹は、なぜ苦い? ~明治・大正期の藥品廣告圖版集~』町田忍著 1997年3月25日 ボランティア情報ネットワーク
- 『広告キャラクター大博物館』ポッププロジェクト 平成6年11月10日 日本文芸社
2009年5月30日:ページ分割。旅行に仁丹、仁丹吊り下げサイズ2枚、町名標示2枚追加、差し替えあり。2010年3月31日:映画に仁丹追加。2013年5月20日:現代人の嗜み仁丹追加。2019年4月10日:現代の仁丹町名表示追加。2021年3月5日:仁丹町名標示の張り方更新。